当館について
開設に至るまで
町人文化が開花した元禄時代からほぼ1世紀が経過し江戸時代中期から後期に向かう頃、今井町在住の豊田家先祖「五代・六代目紙屋半三郎」は肥料販売を皮切りに時代の後押しもあって大和綿を取り扱い相当の財を成しました。
骨太・豪快であった半三郎は書画・骨董・古美術にも造詣が深く、それまでの蓄財をこれら工芸美術品の収集に費やしました。ところが晩年、一時隆盛を誇った大和綿も繊維が太く、また産地間競争もあって文化年間の終わりに暴落。その後、油商に転じるも傾いた屋台を支えきることはできませんでした。
七代目は商人と言うより、華道・茶道・三味線その他の芸事に関心が深い文化人であったため、江戸後期から末期にかけての今井町の衰退と時を同じくして紙半豊田家の最盛期も終焉へと向かいました。
しかしながら、幸いにも収集した古美術等の相当数は代々受け継がれて現存しており、時代を超えて今井・紙半豊田家の証として後世に伝えることが出来れば光栄と思い、当記念館の開設へと至りました。

豊田本家の歴史
旧家の多い今井町の中にあって豊田本家として知られております。昔から代々「紙屋半三郎」を襲名、屋号から「紙半」で通り、初代今井兵部がこの町へ入り町造りを始めた頃から肥料・綿・油・木綿を生業とし生計を立てていました。
徳川時代初期にはすでに大和では押しも押されぬ肥料大問屋となっており、また6代目は両替商を営み大名貸で豪商の基盤を築きました。
現在当家に残っている多くの古文書が当時の繁栄ぶりを物語り、一時は京都知恩院の台所を預かっていたと伝えられています。
大和の金は今井に七分とまで謳われた今井町は富み栄えて、豊田家から諸国の大・小名への金融や全国古社寺への寄進も相当額に上ったことも記録に残っており、その中には今井宗久の茶室もあったとも言い伝えられています。
当家は敷地約350坪・建坪150坪の屋敷で、昔は紙六・紙七・紙佐という分家が両側に並んでいましたが、今は東隣りの紙七豊田家(元和元年間分家)だけが昔の姿のまま残されています。
当家付近一帯を紙屋町と呼んでいますが、これは紙屋という屋号がそのまま地名になったものと伝えられています。


今井町の歴史
14世紀後半頃の今井は興福寺の荘園(所有地の意)で、当時は春日大社を中心に、最盛期の3分の1程度の環濠集落を母体として発展した町です。
室町時代の後期には、この付近に一向宗(浄土真宗)の道場、のちの称念寺ができ始めました。旧勢力に何度か焼き払われますが、天文年間(1532〜55年)頃には東西南北の四町から成る寺内が誕生していたと考えられています。
その後、新町・今町が整い、文禄検地(1561年)頃には現在とほぼ同規模の六町が成立しています。周囲に三間の堀・土居を巡らせ、入り口には9か所の門を構えた武装宗教都市でした。
しかし、天正3年(1575年)織田信長に降伏後は町民の富力が増大し、近在の豪商の移入と相まって南大和最大の自治都市・商業都市として発展しました。あらゆる商売が行われ、中でも繰綿・古手・木綿類の取引を中心に大いに栄えました。寛永11年(1634年)には「今井札」の発行が許可されるほどでした。
その後、両替商が発展し、大名にも金銀などを貸すほどになりました。
(今井町資料より)

概要
名称 | 紙半豊田記念館 |
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所在地 | 〒634-0812 奈良県橿原市今井町3-9−11 |
電話番号・FAX | 0744-24-0348 |
開館時間 | 10時30分〜16時30分(入場は16時まで) ※平日は時期により変更あり。お問い合わせ下さい |
休館日 | 年末年始 |
展示内容 | ・江戸時代の書画 ・蒔絵 ・古伊万里等の陶磁器 ・古文書 ・その他古美術品各種 (※時期により異なります。年2〜3回入替あり) |
開設日 | 2012年3月 |
館長 | 豊田 敦 / 館長代行:福井 逸夫 |